庭の大掃除について、またまた書いてみました。

そろそろ大掃除に本腰を入れておられる方も多いかと思います。

年末の掃除は普段の掃除と同じようで、違う点があります。日常でなかなか出来ない所をきれいにすることも、そのひとつですが、一番違う点は、歳神様をお迎えする準備をしている、という点です。

私は歳神様はじめ八百万の神様、仏様が、いつも見守って下さっているって、漠然とですが、信じてる派。見たわけじゃないけれど、言い伝えによると、歳神様も玄関から入ってこられるそうです。ですから、特に清浄な空間にすべきは家の入口。門から前庭、玄関だけでも丁寧に掃除すべきと思っています。

だって、人間の私ですら、門先がごちゃごちゃなお宅を見ると、ちょっと考えてしまいます。人目につかない室内はもっと片付いていないのでは?なんて勝手に想像してしまったりね。だから神様目線を想像すると、もっと見透かされていそうじゃないですか?しめ縄や門松などの飾りは、歳神様の依り代ですけれど「清浄になったのでどうぞお越しください」という証してつける、という意味合いもあるそうです。

清浄にしたあとはお飾りと更にお花も飾ります。これは昨年末の様子。ディスプレイガーデンで咲いている侘助椿を飾りました。今年もたぶんこんな風です。

寒い中、外掃除や水仕事は、大変ですけれど、天気のいい日を選んで、是非やってみましょう!

庭の大掃除について、私のやり方はブログでこれまで何度か書いています。

外掃除で心掛けていることと言うと、庭では土の上をきれいにすること、その他の部分は拭き掃除を徹底的にやること、です。

ディスプレイガーデンのアジサイ「アナベル」。このアジサイに限って剪定は冬です。スッキリ切って、土の上も掃き清めています。

土の落ち葉や何かを丁寧に取り去って綺麗にしても、どうせまたすぐ落ちるのに、馬鹿らしいじゃないかとお思いかもしれません。でもいつかやらなければ、ずっと積もりっぱなしでしょ?そこで朽ちて土の養分になればいい、と言われるかもしれませんが、どんだけ放ったらかしにするつもりですか?

庭掃除をしていて、いつも感じる事を、素敵に代弁してくださった文章に出会いましたので、ご紹介します。

料理研究家の土井善晴氏の著書「一汁一菜でよいという提案」の中のお言葉をいくつか抜粋しました。

淡々と暮らす。暮らしとは、毎日同じことの繰り返しです。毎日同じ繰り返しだからこそ、気づくことがたくさんあるのです。その気づきはまた喜びともなり得ます。(中略)毎日庭を掃いていると、履いている人にしかわからないことがたくさんあることを知るでしょう。たったひとつの石ころとでも友達になれるのです。もとからそこにあったものか、あるとき他から紛れ込んだものか知っているのです。

しゃがみこんで、庭木の根元を丁寧に掃除して、一枚の葉も残さずに掃き清め、水を打ち終わると、黒いつちに庭木が際立って浮かび上がり、ハッとするほどうつくしいのです。じぶんの心まで清々しい気持ちになるのがわかります。植物が喜んでいるようにかんじられるのです。植物を育てているということもありますが、逆に私を見てくれているように感じられるのです。これは大事が起こる前の小さな気配を見逃さないということにつながります。

掃除を終えて、またすぐに木の葉がおちることがあります。それは掃除する前に戻ってしまったのではなく、掃き清められた新しい庭に、新しい木の葉が落ちたのです。そこにまた新しい庭が現れたのです。初めて見る庭は美しい。いつも動いていることが美しい。流れる水が腐らないように、心地よく感じるのは、それが滞らぬ時間という自然の姿だからです。伊勢神宮が二十年ごとに建て替え改められることも同じ。新しくなることが永遠につながります。

・・・おこがましいのですが、私も土井先生と同じ気持ちで庭掃除をしています。

庭は掃除する度に新しい庭になっていくのです。年末の大掃除の機会に、一度、そういう目で庭をご覧いただければと思います。

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この記事を書いた人

Dear Garden 代表
ガーデンデザイナー、一級造園施工管理技士

庭づくりを通して感じたことや、最新のガーデン事情、設計について、施工現場の様子、ガーデンデザイナーの暮らしや興味があること、などなど様々なコラムをお届けします。

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