茶庭、露地ともいいますが、そのお庭で「この先ご遠慮ください」という場所には、「立入禁止」と書くかわりに、石がひとつ、そっと置いてあることがあります。
小ぶりで丸みのあるその石は、縄で器用に縛られています。その縄の先をひょいと持って、ちょんと置いた、そんなさり気ない感じなのです。ただ石を置くだけだと、きっと見逃されますし、座りも悪く、すぐ転がって行っちゃいそう。縄には意味があるんですね、きっと。
「入らないでくださいよ」という気持ちが、たったひとつの石で表現されていることに驚きます。小道の途中に置いてあるため、どなたでも、例えば外国の方でも何かしら気づくはず。庭に溶け込んでいる様子が美しく、ダメと言われているのに、嫌な気持ちは全くしません。むしろ「露地ではこういう事すらも、粋に表現するんだな。」って思いました。
自分の言いたいことを、こんなにさり気なくスマートに伝えられるなんて素敵だな。
さり気なさってセンスですよね。
さり気ない行い、さり気ない装い・・・それらのベースには常識や良心があり、控えめながら、どこか光るものがあるというか。その方の細やかな心配りの現れかな、って思います。大人な振る舞いの最たるもの、憧れます。
どうすればそのようなことが出来るようになるのでしょう。
ひとつのヒントが、最近読んだ本「坐禅のすすめ」(臨済宗全生庵住職 平井正修著)の中にありました。
禅の修行僧のことを雲水と呼びますが、その方たちは修業期間中は道場で生活されます。行住座臥の一切合切が修行ですから、例えば、朝、起きるときは、音や太鼓が打ち鳴らされたら、ただちに起きて身繕いをし、本堂に駆けつけなければならないそうです。暖かい布団の中で「あと5分・・・」など余計なことを考えている暇はありません。直ちに本堂へ行くには、起きる事に専念し、そこに心を配ること。それでいっぱい一杯なんだそうです。読経も、食事も、掃除も、托鉢も、何もかもが同じ調子。
そのときやるべきこと、目の前のこと、当たり前のことだけに心を配る。これがね、かなり難しいことで、普通は何かをしながらも、つい別のことを考えたりするものです。雑念だらけで「心ここに非ず」なことが多いのは、私も自覚するところ。それで手落ちがあったり、バタバタするのかなぁと思います。見ているようで全然見えていない、だから見逃す。あぁ。さり気なくスマートにこなすとは遠い姿。
禅の修行で、来る日も来る日も何年間も、そうしたことを続けると、何をする時も自然に心が配れるようになる、心を配るという思いを持って何事にも迎えるようになるといいます。
そうして「心を配る」という思いを持っていると、物事に対する向かい方、ふるまい、所作が変わってくるのだそうです。さり気なさって、まさにそれかな!と思いました。
ちなみに雑念を消すには、坐禅がよいトレーニングになるそうです。坐禅と瞑想、似ているようでちょっと違うみたい。坐禅は、まず禅僧の指導を受けることが重要なポイントで、それは、初心者に教えることが奥義であり極意であるから、とありました。正しいカタチから入り、それを身体で覚えることが大切なんだそうです。